INTERVIEW
KURAISHI MUNENORI

倉石宗範

一般社団法人障がい児成長支援協会 副理事長 https://www.seicho-ryoiku.jp/

略歴

中京大学体育学部へラグビー推薦で入学。卒業後に特別支援学校で7年勤務したのち、仏教大学幼児教育学部へ編入し、子育てをしながら大学を卒業。大手のスポーツクラブに引き抜かれインストラクター養成を行った。その後、教員の経験を買われ、幼稚園の先生、発達相談員として4年間勤務後に、一般社団法人スポーツアカデミーを立ち上げる。現在はスポーツアカデミーの代表理事を行いながら、空手教室の指導、幼児体育指導、教育コンサルタントとして保育士、教員への研修を行っている。また、ネイルサロン、マツエクサロンの経営を行い、売上で子どもたちの青少年育成キャンプなど社会貢献事業も多く行っている。6足のわらじを履きながら、一般社団法人障がい児成長支援協会の副理事長として全国で保護者のための子育てセミナーを行っている。
著書に『スマホを持たせるのは遅い方がよい』(東京六法出版)がある。

-現在の仕事についた経緯-

保育・教育現場で、教員や保育士、運動療育指導員Ⓡとして、健常児はもちろん多くの障がい児の支援を行っており、一般社団法人障がい児成長支援協会の理事長の山内康彦先生と知り合うことができました。
元小学校の先生ということで、教育・障がい児支援の支援の方向性、当事者や保護者のサポート、それをとりまく先生や保育士の研修の中で、とても共感することが多く、山内先生からお仕事を頂くことが多くなり、現在に至っています。
大学卒業後から自分勝手に仕事をしていて、初めて「僕の後を継ぐのは倉石先生しかいない」と言われ、本当に認められることの嬉しさを感じました。感謝とプレッシャーを感じながらお仕事を頑張らせていただいています。

-仕事へのこだわり-

学生の頃は母校の体育の先生になるのが夢でしたが、就職氷河期で普通高校の教員採用試験は倍率100倍という難関だったため、試験に受かることができず、地元の高校へ戻れませんでした。しかし、ご縁があり特別支援学校で働くことできました。
そのときにスクールバスで中学1年生のN君に出会いました。車椅子に乗っている彼は知的に問題も無く普通に話すことができました。色々な話をしていく中で、将来は海外へ旅行へ行きたいという彼の話で盛り上がっていました。
ところが、他の先生から、「N君は進行性筋ジストロフィーで、筋力が落ち、車椅子から電動車椅子になり、やがて喋れなくなり、最後は肺に水がたまって死ぬんだよ。あと何年か後に死ぬんだ。高等部が卒業できればいいだろう。」ということを聞き、大変衝撃を受けました。「僕そのうち死ぬんだ、でも大丈夫、いつか薬ができるから!」とニコニコしながらそのことを話してくれた彼の前で泣いたことを僕は今でも覚えています。何も知らない、何もできない自分に悔しく涙がこぼれ落ちました。
正解なんてないかもしれませんが、また大学へ行き勉強をしたいと思い、編入して勉強して、再就職し、障がいを持つ生徒や幼稚園の先生として子どもと関わるようになりました。自分は高校の先生が好きなんじゃなくて「成長する子どもの姿を見ることが好きなんだ」と気がつくことができました。学校の先生、幼稚園の先生、運動療育の先生、空手の先生、どれも子どもたちの笑顔と成長が見られれば何でもいいと気がつきました。
そして現在、子どもと多く関われる仕事にやりがいを感じています。その中でも一番大切にしてることは、今ある命に感謝することです。指導している時間は1分1秒を大切にして、真剣にこどもと関わろうと心に決め、体育、空手、運動療育の現場に入っています。

-若者へのメッセージ-

僕は小さいときから学校の先生に呼び出されて怒られたり、留年しそうになったりと、メチャクチャな学生生活を送っていました。若者へメッセージと言われても、そんな偉そうなことは何も言えません。
でも、唯一言えるのは「ボランティアをした方がよい」ということです。今でも子どもたちとボランティアキャンプをするなど、お金にならないようなことを沢山しています。よく、ボランティアは“誰かのため”とか“社会のため”って言う人がいますが、違うと思います。他人や社会に投げた「優しさ・思いやり」の塊はいつか自分に絶対に返ってきます。人のためでなく自分のために、どんな小さなことでもいいので自分の余っている時間・お金を費やしてみてください。
決して長い時間、大金じゃなくてもいいのです。自分の負担になるようなことでなくて、道ばたのゴミを拾う、コンビニのおつりの1円を寄付するでも十分だと思います。いつかきっと自分に返ってきますよ☆