INTERVIEW
KUMA KENGO

隈研吾

隈研吾建築都市設計事務所 建築家 https://kkaa.co.jp/

略歴

1954年生。1990年、隈研吾建築都市設計事務所設立。慶應義塾大学教授、東京大学教授を経て、現在、東京大学特別教授・名誉教授。30を超える国々でプロジェクトが進行中。自然と技術と人間の新しい関係を切り開く建築を提案。主な著書に『全仕事』(大和書房)、『点・線・面』(岩波書店)、『負ける建築』(岩波書店)、『自然な建築』、『小さな建築』(岩波新書)、他多数。

建築への憧れと繋がり

地球規模の環境変化に伴い、今までの建築の在り方は限界にきていると私は感じています。2019年に竣工した国立競技場では「庇(ひさし)」をテーマに掲げ、日差しをカットし、風を屋内に流して涼しく過ごせるような配慮を施しました。まさに日本の夏を象徴する、高温多湿な環境に適した建築と言えるでしょう。設計の際にはデジタルデータを活用して外気をどのように屋内に取り込むのか、徹底したシミュレーションを幾度となく繰り返しました。その結果、竣工前の真夏の作業現場においても、誰一人として熱中症が出なかったと聞いています。

庇は日本の伝統文化の一つですが、20世紀中に廃れてしまい、建築物はいつしか単なる箱になってしまいました。だからこそ国立競技場のプロジェクトでは単なる箱からの脱却を目指しましたし、今後はライフスタイルのロールモデルになり得るのではないかと期待しています。
実は私自身が建築家を志したきっかけは、国立代々木競技場でした。10歳の時、1964年の東京オリンピックのメイン会場として建築された競技場を目前にした時の感動は、今も私の脳裏に強く焼き付いています。その時に父から「丹下健三という建築家が作った」と聞き、建築家という職業に憧れを抱くようになったのです。

それからというもの、建築を見る目も変わりました。実家は横浜の戦前にできたボロ屋で、当初は恥ずかしくて早く引っ越してほしいとさえ思っていたのですが、だんだんとその家の「しぐさ」や「もろさ」のようなものに親しみを感じるようになっていったのです。
また学生時代には、建築学の一環で2か月もの間、サハラ砂漠の調査を行ったことがありました。砂漠周辺の集落にある小屋の集合体が大地と一体となったその光景は、まるで砂から生えた植物のようだったことを思い出します。そうした建築との体験や繋がり一つひとつが、今の私の礎となっていったのかもしれません。

「集中から自然へ」と還す発想を

私は1990年に現在の事務所を構え、晴れて建築家としてのキャリアをスタートさせました。しかし時代はバブル崩壊の只中。予定していた東京の仕事は全てキャンセルとなり、それがきっかけで地方の建築に数多く携わっています。そんな折にお受けしたのが、高知県梼原町の庁舎の設計依頼でした。その時に町長さんから出された条件は、「地元の木材を使うこと」。その一点だけでした。私はすぐさま木を知り尽くした地元の職人さんと知恵を出し合い、木材を多分に活用した建築を完成させたのです。「自分の作品」だという愛着や達成感も相まって、心から「建築家になってよかった」と思える瞬間でもありました。

その後も万里の長城のGreat(Bamboo)Wall(2002)で中国の竹を使用するなど、世界中の地域風土に根差した建築をこれまでに数多く手掛けています。地域にはそれぞれの営みがあり、材料があり、そこで暮らす人がいる。そうした地域の視点に立って創造することができれば、自然とそこにしかない建築になっていくのでしょう。建築というのは単に箱やモノなのではなく、人間の営みや人生といったソフトの部分を含むものだということです。この考えは私自身が建築家として様々な地域を訪れ、多様な人や営みに実際に触れることで体感し、わかったことでもあります。

コロナ禍では新しい生活様式が取りざたされ、時代とともに社会も大きく変化し続けてきました。そんな中、建築という箱に人を閉じ込め、大量の電気を消費し、照明と空調で快適な空間を作る建築は限界にきていると感じています。コロナ禍でキャンプがブームとなったのも、箱から出ようという人々の直観が働いたことが要因なのではないでしょうか。
人類はバラバラに狩猟採集をしていた段階から、家を作り、街を作り、人を集め、文明を作った「自然から集中へ」という歴史を持っています。そして今、歴史は重要な折り返し点を迎えていると言えるでしょう。「集中から自然へ」と還す発想がなければ、建築は人類の敵になってしまうのではないかという危機感さえ抱いています。建築家の能力は自分だけの発想だけでは成り立ちません。周囲の人々、社会が何を求めているのかを感じる能力だと思うからです。だからこそ、優れた建築は永く愛されてきました。こうした時代の転換点に立つ建築家の一人として、その意味を深く理解し、新しい建築の在り方を問い続けながら後世へと引き継いでいくこと。これが今の私にとって、最大の使命なのだと考えています。